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「人生にときめかない50男」に欠けた心の断捨離 「不幸な50代」「幸せな50代」を分ける境目

50歳になったら、1度「心の断捨離」をしたほうがいい理由とは

50歳になったら、1度「心の断捨離」をしたほうがいい理由とは?(写真:プラナ/PIXTA)  

人生の「2周目」とも言える、50歳以降の人生を楽しく生きる人と、退屈に生きる人の違いは、「心の荷台」の違いにあると明治大学教授の齋藤孝氏は言います。心の荷台を嫌な記憶や心配事で占めてしまうと、つねに何かにおびえたような気持ちで、人生を前向きに過ごすことができません。そうならないための、「心の断捨離術」について解説します。

50歳以上の人を見ると、新鮮さに欠け、老けた感じのする人と、逆に50代になって生き生き元気な人に、極端に分かれるような気がします。仕事では部下をまとめていく立場であり、家庭ではすでに子どもも手を離れつつある。そんな立場ですから、ある程度老成していて当たり前。ところがすっかり世慣れてしまい、ときめきを失ってしまう。まったく何事にも心を動かさない人がいます。

そういう人の顔を見ると、能面のように表情が硬直しています。生き生きした感情の動きが見られない。そんな人物を、同窓会などで時折目にするのではないでしょうか? そういう人は、人生の2周目を楽しむことは難しいでしょう。心も表情も、そして身体も硬直してしまっている。そんな残念な50代、60代も少なくないのです。

どうしてそのように「固く」なってしまうのでしょうか? 私は1つの原因は、自分で人生を「重くしている」からではないかと考えています。

50代は「心の荷物」を軽くする年

つまり「心の荷台」に荷物をたくさん積んでいる状態。自分で積み込みすぎて重くしているのです。要するに心配事がたくさんあるということ。何でもかんでも詰め込みすぎて、自分で重くしてしまっているのです。

まずは「心の荷台」を軽くしましょう。たくさんある荷物のうち、本当に必要なものだけを選び出し、そのほかの荷物は捨てるのです。そのために1度、荷台の荷物をガサッと全部おろしてしまいましょう。おそらくその中には、トラウマのようなものも含めて過去のさまざまな体験や記憶、こだわりや執着からくるガラクタのような荷物がたくさんあるはずです。

ちょうどタンスの中がいつの間にか使わない服や下着などでいっぱいになるように、もはや不要な荷物がそのまま手付かずで残っている。いい記憶もあれば忌まわしい記憶もある。「心の荷台」に10代からのストレスが全部乗っている。悩みや心配事もたくさんある。家のこと、家族のこと、仕事のこと、あらゆる心配事で荷台がいっぱいになっています。

よく、10代や20代の頃の両親や兄弟との葛藤や課題を、50代になってもいまだに持ち続けている人がいます。虐待を受けたような人はまた別ですが、そこまでではなくて単に親との関係がうまくいかなかったとか、父親が厳しくて嫌いだったとか、母親がうるさくて嫌だったとか、誰でも多かれ少なかれ直面する類の葛藤を、いまだに処理しきれず抱えている。

それが30代前半くらいまでならなんとか認めるにしても、結婚して自分の子どもができて、もう50歳にもならんとするのに、いまだにそれを引きずっているとしたら、それはもう滑稽としか言えません。

「負の記憶」の上手な捨て方

20代、30代のときに誰々にあんなに嫌な言葉を言われた、多くの人たちの前で面目を潰され恥をかかされた。もう20年も経っているのに今思い出すだけでも、キーボードを打つ手が止まるほどムカムカしてくる。そんな怒りや恨みもあるでしょう。あるいは10年前に離婚した当時のことを思い出したり、「あのときもっとああしていれば……」などと後悔し、別れた相手のことをいろいろと考える。

人生は確かに過去から現在への時間の流れであり、記憶の流れでもあります。だからといって、それまで体験してきたあらゆる記憶、とくに負の記憶まで後生大事にずっと抱えている必要はありません。それではどんどん重くなり動きが取れなくなってしまう。

私もやっていることですが、忘れたい過去、捨てるべき体験は、「よし、これは忘れよう。捨ててしまおう」と、心の中で1度決心する。そして捨てた荷物には心の中でしっかりと「バッテン印」をつけるのです。

人間は弱い生き物ですから、忘れようとしたこと、捨ててしまったことでも、またふと思い出してしまう癖があります。その瞬間、「あ、いかん! これはバッテンをつけたものじゃないか。もうきれいさっぱり捨てた荷物だ」と反省し、意識的に忘れるようにする。

「それ以上考えない」と、強烈な意志をもって決めるのです。それでも、またムクムクと記憶が首をもたげてくることがあります。

そうしたら、「これについては、もう考えない!」と「1秒」で意識から振り落とす。私はこれを習慣的にやっています。芥川龍之介の『蜘蛛の糸』のように、あたかも私の心にぶら下がった糸をたどって嫌な記憶がよじ登ってくる。「また来たか! もうお前とは縁を切ったはずだ」とハサミでチョキン!と切る。

嫌な記憶は真っ逆さまに谷底に落ち、消えていくというイメージです。迫力をもって切ることが重要です。

不思議なもので、こういうことを繰り返すうちに、次第に本当に忘れてしまいます。いつしか記憶はすっかり風化して、心のごみ箱の中に完全に収まってしまいます。そうやって「心の断捨離」をしていきます。

忘れられない記憶は「再編集」する

それでもどうしても消し去れない過去もあるでしょう。バッテンをつけて忘れようとしても、なかなか忘れられない。そんな場合には「記憶の再編集」という手段があります。

勝手に編集して、別な物語に変換してしまうのです。例えば、別れた相手をどうしても忘れられない。つらい失恋の記憶はいつまでも爪痕を残します。新しいパートナーができればよいのですが、そう簡単にいかない場合もあります。

そういうときには、あえてベタな演歌を聴いてみる。別れて北の最果ての地に行ったり、未練や心残りを歌っている演歌を聴いてストーリーに自分をなぞらえる。時には声を出して歌ってみることで、自分の体験がそのフィクションの世界に溶け込んでいくのです。

そして歌ってみることで、グジュグジュとした感情の塊が、演歌のストーリーの世界に入り込み、一種の昇華作用が起きる。すると思い出自体が深刻なものから、フィクションの世界のロマンチシズムに彩られて、深刻ではなくなっていきます。生えかかっていた「うつの雑草」がなくなり、不思議に前向きな気持ち、気力が湧いてくる。

このことはニーチェが『悲劇の誕生』という著作の中で明らかにしていることでもあります。ギリシャ悲劇は古代ギリシャ時代に誕生した演劇の1つのジャンルですが、仮面をつけた俳優と、舞踊合唱隊であるコロスの掛け合いで進行します。

この悲劇、とくにコロスの合唱は、人間が本質的に持っている悲劇性を昇華させる役割があるとニーチェは言います。ギリシャの人たちは劇場で演じられる悲劇を観て、その歌声を聴くことで、日ごろの労苦、人生のつらさや悲しさをその壮大なフィクションの中で昇華させたのです。

歌や音楽、演劇といった芸術、芸能には日常の心の荷物を昇華させ、軽くさせる力がある。ですから映画でもいいし落語のようなものでもいい、芸術や芸能、一部の娯楽のフィクション、ストーリーによって現実を溶け込ませ昇華させてしまう。生々しい過去を色づけし加工することで、重荷ではなく1つの思い出に変換することができるのです。


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