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うつ病の元商社マンが作った引きこもり塾創業してから7年間ずっと黒字経営

うつ病の元商社マンが作った引きこもり塾 創業してから7年間ずっと黒字経営

親と揉め、荒れていた中高時代を経て、2浪の末にICUへ入学。卒業後に総合商社に入社するも、うつ病になり4カ月で退職。1年間の引きこもりを経験した。その後自身の体験から不登校、中退者専門の塾を立ち上げた男のストーリー。

「軽度の発達障害で、暴走族の世界にもなじめなかった」

【田原】安田さんのご著書を読みました。幼少期から、なかなか大変なご経験をされましたね。

【安田】父のDVなどが原因で、両親が離婚。寮に入ったり、父方の祖父母と暮らしましたが、折り合いが悪くて、友達の家を泊まり歩いたり、ときには公園で野宿をしたりしていました。

【田原】気が進まなければお話しにならなくていいですが、お父さんはどうして暴力を?

【安田】感情のコントロールが非常に苦手な人でした。当時はそういう言葉がなかったですが、私と同じく発達障害の傾向があったのかなと。上手くいかないことがたくさんあったのではないかと思います。

【田原】壮絶な環境で育って、よくグレませんでしたね。

【安田】じつは不良の真似事もしました。ただ、僕も軽度の発達障害があって、暴走族の世界にもなじめなかった。どんくさいので、結局、どの世界に行っても自分の居場所をつくれないんですよね。

【田原】どんくさいというより、言いたいことを言っちゃうからじゃないですか。著書を読むと、黙っていれば目をつけられずに済む場面なのに、言いたいことを言った結果、いじめられるパターンを繰り返している。

【安田】そうかもしれません。空気を読めなくて、「なんだ、あいつは」となることはよくありました。「この場ではこう言ったほうが丸く収まる」とわかることもあるんです。でも、考えたことを言ってしまいたいという衝動を抑えられなくて。

【田原】中学時代はまったく勉強してなくて、高校は偏差値の低いところに入った。ところが、高2のころに突然、やる気を出して勉強するようになった。どうしてですか。

【安田】まず将来に対する不安がありました。学校もあまり行ってなかったし、さすがにこのままではまずいなと。受験を具体的に意識するようになったのは、2001年の年末です。その年、アメリカで同時多発テロが起きて、その後アフガニスタンへの空爆が行われました。僕は自分が虐げられてきたという思いが強くて、不条理なことに人一倍敏感なタイプ。アフガニスタンの人々にとって空爆は不条理だったはずで、「紛争や戦争を解決して、世の中から不条理をなくしたい」と考えるようになりました。

国連の職員になるならと2浪してICUへ

【田原】それで、不条理を正すためにどうしましたか?

【安田】国際紛争を解決に導くには、国際政治学者や国連の職員になればいいと考えました。で、学者になるなら東大で、国連の職員になるならICU(国際基督教大学)だろうと。単純な発想です。

キズキ共育塾 代表 安田祐輔氏

【田原】毎日13時間以上勉強したそうですね。ずっとサボっていたのに、よく変われましたね。

【安田】切羽詰まっていましたから。高校時代、アルバイトを7回変えました。サービス業は苦手で、どうしても長続きしなかった。そうなると、身を立てるには勉強しかないなと。もう1つ、勉強してみたら意外に楽しかった。夜の街を彷徨っても成長は感じませんでしたが、勉強すると、昨日読めなかった英語が今日は読めたりする。成長を実感できるのが面白くて、気がついたら睡眠以外の時間はほぼ勉強に充てていました。

【田原】浪人を2回やった後、ICUに合格。大学生活では何を?

【安田】中東問題に興味があり、イスラエルとパレスチナの問題を扱う学生団体に入りました。その学生団体で、イスラエルとパレスチナの若者を12人、日本に招いて、1カ月合宿して対話してもらう平和会議をやりました。日本への入国はビザが必要ですが、パレスチナ人はイスラエル側に入れないため、自分でビザを取れません。だから僕が現地まで行って、彼らからパスポートを預かり、イスラエルのテルアビブにある日本大使館に行ってビザを取り、またパレスチナ自治区に戻るといったこともやりました。

【田原】安田さんは、自分のことを発達障害とおっしゃる。発達障害でも、そういうことができるんですか?

【安田】発達障害にもいい面があって、さっき言ったようにあることに集中し始めると本当に集中力がすごいんです。このときはいい面が出たんだと思います。

【田原】そのあとはルーマニアに行く。

【安田】ルーマニアの研究機関にインターンに行ったのですが、3カ月で辞めました。そこで一緒に働いていたアメリカ人やイギリス人は、現地をよく知らないのに偉そうなことばかり言う。それって何か違うんじゃないかと。ただ、僕も世界を知っているわけではありません。世界の最貧国と言われる国で苦しい生活をしている人たちと一緒に暮らしたうえで自分に何ができるかを考えようと思い、バングラデシュに行きました。

【田原】マザーハウスの山口絵理子さんと発想が似てるね。山口さんも米国の研究機関で同じ思いを抱いて、バングラデシュの大学院に入った。彼女は現地の貧困を解決するために起業したけど、安田さんは商社にお入りになった。これはどうして?

【安田】そこが僕の弱いところだったんでしょう。バングラデシュの娼婦街でリストカットした子やメンタルを病んでしまった子を見て、支援する方法を見つけたいと思ったのですが、一方で人から称賛されるブランド力のあるところに所属して安心したいという欲求もあった。自分に嘘をついて就活しているうちに受かったところに行ってしまった感じです。

大手総合商社に入社したが、4カ月でダウン

【田原】総合商社に入社したものの、4カ月でダウンして辞めてしまう。

【安田】これにはいくつか原因があります。1つは発達障害。僕は感覚が過敏で、革靴を履けないんです。無理して履いていたら水虫になったのでオフィスで靴を脱いで仕事していたら、上司から叱られました。あと、人と距離が近いのも苦手で、満員電車にも耐えられませんでした。早朝出勤という手もありましたが、発達障害は睡眠障害が出やすくて、朝早く起きることもできなかった。

田原総一朗●1934年、滋賀県生まれ。早稲田大学文学部卒業後、岩波映画製作所入社。東京12チャンネル(現テレビ東京)を経て、77年よりフリーのジャーナリストに。本連載を収録した『起業家のように考える。』(小社刊)ほか、『日本の戦争』など著書多数。

【田原】そんなの、通気性のいい靴を履いたり、睡眠薬を飲んで眠ればいいんじゃない?

【安田】おっしゃるとおりですが、当時は気がつかなくて。あと、そもそも意味のないルールを押しつけられることに根本的に耐えられなかったんだと思います。内勤なのに革靴を履けとか、朝に会議があるわけじゃないのに9時に来いとか、正直、意味がわかりませんでした。

【田原】辞めた原因はほかにもある?

【安田】配属が希望と違うことも大きかったです。僕が就活していた時代は、尖った若手を採用したいという空気が強くて、人事から「若手でもやりたい分野で活躍できる」と言われて内定をもらいました。当時は幼くて、それを信じちゃってましたね。

【田原】体調を崩して病気になったらうつ病の診断を受けて、会社を辞めて引きこもるようになった。そしてその後、自分が発達障害だと知る。僕は発達障害のことをよく知らないのですが、どういうものなんですか。

【安田】いまメガネをかけてる人は、メガネがない時代だったら視覚障害。つまり社会に合わせられない何かがあることを「障害」と言います。発達障害も同じで、たとえばみんなと同じ服や靴を選べないこともあれば、人の話を聞けなかったり、ジーッと座っていられないなど、現代社会において、まわりとうまくやっていくことが難しいという特徴があります。

【田原】それで、安田さんはどれくらい引きこもってたの?

【安田】1年くらいですね。

【田原】それから人を教える仕事に就こうと考えた。どうして?

【安田】何かしないと食っていけなかったので、とにかく働こうと思いました。ただ、サラリーマンになったらまた同じことを繰り返すだけなので、おそらく無理。僕がかろうじて持っていたスキルと言えば、英語を使えることと、勉強ゼロの状態からやり直して大学に合格したことくらい。それらを活かして自分で何かやるなら、塾しかないと考えました。

【田原】ただ、普通の学習塾ではなく、引きこもりや中退者など、学校教育から零れ落ちた人を立ち直らせて大学合格を目指す塾にした。どうしてそんな塾をやろうと思ったのですか。

【安田】もともと勉強ができる人を東大や早慶に入れる塾は世の中にたくさんあって、魅力を感じませんでした。また、そうやって誰かを合格させてもほかの人が落ちるわけで、ゼロサムゲームみたいなものに参加するのも何か違う。やりたいのは、本当に困っている人を助けること。僕は十代のころ進学塾に行ったもののまわりについていけず、バカにされた経験があります。そういう思いをしないでいい塾をつくるのは社会的に正しいことだし、ニーズもあるんじゃないかと考えました。

引きこもっていた人にどう勉強を教えるのか

【田原】不登校の子どもたちが通うフリースクールがありますが、あれとは違うんですか。

【安田】フリースクールは、子どもたちを「そのままでいいんだよ」と受け入れて居場所を与えてあげることに意義があります。一方、僕がやりたかったのは、居場所だけでなく、将来、自立する力をつけてあげること。たとえば小学校から不登校で小数や分数の計算ができなければ、就ける仕事がものすごく限定されてしまう。必ずしも大学に行く必要はありませんが、大学や専門学校に行けば選択肢が広がるので、僕たちの塾はそこを目標にしています。

【田原】引きこもっていた人にどうやって勉強を教えるんですか。

【安田】引きこもりの人がいきなりやる気になることは、現実的にほとんどありません。なんとなく気分がいいから塾に問い合わせてみたと思えば、次の日はまたやる気を失っていたりするのが普通です。だから長期戦で、少しずつ進めていく必要がある。たとえば相談に来たら、次に週に1回、塾に来られる状態を目指します。遅刻しつつも週1回通えたら、次は時間通りに来ることを目指す。そうやって小さなハードルを1つずつゆっくり越えていくと、いつのまにか元気になります。

【田原】なるほど。塾生はどうやって集めたんですか。

【安田】ホームページです。学校や大手予備校で挫折した人たちは、ベッドに寝転がってスマホでいろいろ検索をするんです。でも、これまで若者の福祉に関わってきた人たちはITに弱くて、ネットを通して彼らとつながることをあまり考えてこなかった。だが引きこもりの人たちに響くメッセージをWeb上で丁寧に発信すれば、人は必ず来るという確信がありました。

【田原】引きこもりの人たちにはどういうメッセージが響くんだろう?

【安田】一番大切なのは物語です。物語といっても、落ちこぼれが東大に入りましたというような成功ストーリーだけでなく、中堅大学や専門学校進学も含めたたくさんの「普通」の物語が重要だと思っています。

【田原】最初、何人集まりました?

【安田】はじめの1年はチラシを撒いていましたが、ほとんど効果なし。ホームページをきちんと立ち上げてから反応が出始めて、半年経たないうちに約10人集まりました。

【田原】先生はどうしましたか。先ほど聞いたやり方だと、マンツーマンじゃないと無理だ。10人を安田さんが1人で見るわけにもいかない。

【安田】はい。だから採用を急ぎました。講師はツイッターやフェイスブックで募集。当時で講師4人だったかな。うちの塾では勉強を教える以外にいろいろ注意しなくてはいけないことがあるので、引きこもりの人にかけてはいけない言葉などの研修を事前に行ってから現場に出てもらいました。

【田原】研修で教えられるようになる?

【安田】最初はわからないところも多いと思います。ただ、だいたい100回ぐらい授業をすると、いろいろな生徒に対応できるようになります。

7年間ずっと黒字。生徒は約300人、講師は120人

【田原】いま塾は何人ですか。

【安田】校舎は東京に3校、神奈川と大阪に1校ずつで、計5校です。生徒は約300人。それに対して、アルバイトも含めて講師は120人体制でやっています。

【田原】利益は出ていますか。

【安田】売り上げの約7割が塾で、学校や行政から受託する仕事もあって、創業から7年ずっと黒字です。

【田原】行政の仕事って?

【安田】足立区では、低所得世帯の一人親世帯の家庭に訪問して、子どもの学習を見ています。新宿区では、引きこもりの方の就労支援です。

【田原】ほかにはいかがですか?

【安田】最近始めたのが、発達障害の人を活用するための企業研修。かつて僕が入社した商社のように、尖った人材を採用して組織を活性化させたい会社は多いんです。しかし、採用しても定着しなかったり、使いこなせていないのが現実。それはもったいないので、企業に向けてマネジメントのアドバイスをしています。

【田原】具体的にはどうすればいい?

【安田】従来は個が組織に合わせるマネジメントでした。でも、発達障害に限らず、若い人たちは「個人の夢」を持ちましょうと言われて育ってきた世代だから、組織が個に合わせるように転換していかなければうまくいきません。たとえばうちには朝が弱くて11時より前には出社できないという社員がいますが、彼とのミーティングは11時以降にしています。もちろん会社に合わせてもらわなくてはいけない場面はありますが、そうでないところは個に合わせる。そのほうが個のパフォーマンスが上がっていいじゃないですか。

【田原】いいね。僕もそう思います。

【安田】もう1つ、この秋か冬にうつと発達障害の方向けのビジネススクールを開く予定です。いずれにしても、うつや発達障害の人が社会復帰できないのは、社会にとって大きな損失。いままで社会から零れ落ちていた人たちが社会できちんと価値を発揮できるように、これからもそのお手伝いをしていきたいです。

安田さんから田原さんへの質問

Q. 希望の進路が叶わなかったとき、どうしましたか?

僕は就職するとき大手マスコミを受けたけど、軒並み落ちました。それでようやく入社したのが、当時“三流局”と言われていた東京12チャンネル(現テレビ東京)。普通ならガッカリするのかもしれないけど、僕はノーテンキだから自由でいいやと思った。実際、他局ならボツになる企画も、スポンサーを自分で見つけてくればやらせてもらえました。

ただ、原発反対の取材をしたら、電通が怒ってスポンサーを降りると言い出した。テレ東の首脳部は弱くて、「番組をやめるか、会社を辞めるか」と僕に迫った。そのとき会社を辞める決断ができたのも、テレ東の給料が安かったから(笑)。その点でも結果オーライ。どんな道でも、いいところはあるんです。

田原総一朗の遺言:どんな道にも、いいところがある


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